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有明海にまつわる人々

img04.png西村 陽子
にしむら ようこ
佐賀県有明海漁協女性部 部長 佐賀市川副町

第1回

ノリ漁に携わっている女性をこのコーナーに登場してもらいたいと思い、紹介いただいたのが西村陽子さん。お互い初対面。会ったとたん私は「まあ美人ですね」と言ってしまった。これまで、どんなに美しい女性に会っても、こんなことは言わなかったのに。色白で目鼻立ちがはっきりしている。きちんとした洋服に綺麗な肌。(写真は次回。話が盛り上がり写真を撮ることを忘れてしまった)屋外で働くことが多いだろうにと思い、お化粧法を聞いた。西村さんは、若い人は海に出る時も手や顔が焼けないようにしっかり日焼け止めクリームを塗っている。手袋をし、帽子もかぶっている。外出する時もきちんとした身なりをしているので、娘やお嫁さんがお手本になっている。三世代同居がずっと続いているからでしょうね。同年代の女性も、きちんとお化粧をしているとのこと。
ノリ漁は1年のうち3~4か月が稼ぎ時で協業が進んでいるが、この間は家族みんなで働く。2016年3月9日付の佐賀新聞に「佐賀県産海苔13季連続日本一確実に」の見出しがある。販売額は230億円。素人の私にはこの金額をきくと、ノリ漁家の人は儲かってるのねと思っていた。率直にそのことを伝えると、西村さんは「この中から船や乾燥機などの経費、資材費、人件費などを引かなくてはならない」。 船は、ほぼ家一軒分の値段。木造船の時代は100万円。現在のプラスティックで4千万円する。「決して豊かではない。昔のように胴巻きにお金をねじ込んで・・・などということはない」という。「ノリ漁」に関係している人に、過去何度かインタビューをしたが、「経費」という言葉を初めて聞いた。その言葉どおり女性部は家計簿の記帳推進、27年度には各漁協女性部の協力で漁家の預貯金、借入金調査が行った。28年度には貯蓄推進も掲げられている。海を守るための石鹸愛用運動も行っている。現在は家内就業者にも給料が支払われるので、家計を計画的に行うことができる。
西村さんの目下の課題は、漁協の決定権がある役職に女性を就任させること。女性の参画促進をし、佐賀県の女性団体協議会に一団体でもあるが、これまで誰ひとり役職についたことはない。西村さんは、海にかかわってきた女性たちも意見が言え、意思決定の場に参画できる日が一日も早く来ることを願っている。(継続して西村さんの話を聞きます)

第2回 ノリは生きている

養殖ノリの一番摘みと入札も終わって1週間。お話を聞きたいと電話をすると、「たぶんいいと思うけれど、ダメな時には前日に電話をする」と忙しそうな様子。
秋芽の一番の書き入れ時。時間を取ってほしいと頼むのが間違っていると思いながらの依頼。幸いキャンセルの電話はなく、お話をうかがうことができた。
「すみません。こんな時に」「今日は海に出ない日だったので。」「この時期、ノリ漁場にでない日があるんですか」と聞くと、協同の乾燥場に、摘んだノリを持っていく順番が決まっていて今日は行かない日らしい。
「25日の夕方のニュースで、組合長さんが『良い海苔ができた』とニコニコして語っていましたよね」と言うと、良いのは昨年に続いて鹿島など県西の方がよくて、西村さんの漁場がある所はあまりよくないらしい。今年は雨が多いので栄養塩が多く赤潮がでているので、ノリの色がよくない。良いときは靴底がノリで滑るが、最近はそんなことはない。
潮の流れが悪いという。

ノリ漁家は9月から3月までは結婚式や法要などの行事は行わない。ご近所もノリ漁で忙しい。近くの親類も忙しいからだ。家族が亡くなると大変で、ノリ漁をやっている親戚が代わってノリを摘んでくれる。いない人は大変だ。
昔は家で葬式をしていたが、今は葬祭場でやるのが普通になった。これは農家の人が多い私の集落でも同じで、この集落に住みだして10年ほどで、あっという間に冠婚葬祭が家で行われなくなった。
3月でノリ漁が終わると網の手入れが始まる。最近でこそ網を洗う機械などできたが、昔はノリを漉く作業、乾燥する作業、束ねる作業などすべて手作業だった。ノリの中に混ざった藁などを何度も何度も取り除かなければならない。「そういえば、子供の頃は海苔に藁が混ざっていたような気がする」と私がいうと、今はそんなことは許されない。何度も何度も取り除いている。

ノリを摘む作業は早朝や真夜中であることが多い。今年の種付けは午前0時から始まった。おまけに寒い時期である。どうしてこのように厳しい条件の時に作業をするのか。
「ノリは生きている。太陽が上がると光合成が起き、ノリがしまってなく、美味しくない。
摘むのはノリが寝ている夜中がいい。」ノリは夜寝ていて、昼間は成長する。

佐賀国際空港から東京へ向かうとき、有明海を見るとノリ網の色がいろいろで美しい。
「網の色は好みで選んでいるのですか。」「そんなことはない、太陽の光と関係で、紺がいいだろうとか、緑がいい、いや白だ。やっぱり赤がいいと選び結果を見ている。」

大潮の時に船を出し、12時間で戻ってくる。潮流にも影響される。夕ご飯を食べ、おにぎりを持って、深夜、船で出る。船の上で仮眠をすることはなく摘採をし、家に帰ってからは家事をする。若いときは、家事、育児、地域の活動と忙しかったが、2,3時間も眠れば、また元気になっていた。

ノリ漁とともに生きてきた西村さんが、一番つらかったのはと尋ねると、昭和42年(1967年)の白腐れの時。あっという間に全滅した。

*白腐病 (中小企業診断協会佐賀県支部お報告書より抜粋)
昭和42年 養殖規模は増大したが、過密養殖による白腐れ病が発生、生産が大きく落ち込んだ。昭和43年、白腐れ病対策として栽苗時期の統一、病害網の一斉撤去など集団管理方式の導入やノリ漁場の環境整理等の取組みを強力に推進され、さらに、昭和44年には、冷凍網技術が定着し、生産安定に繋がった。

西村さんは若いころから「おとこまん」と呼ばれていた。男勝りということであろうか。
機械化の前は、牡蠣殻のついた網を海で拡げる、ノリを摘む、陸に上げるなど力仕事である。
ノリや漁業の手伝いが嫌だと思ったことはないそうだ。

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